田中屋のあゆみ
当田中屋は、油田中と呼ばれた鈴木本家より4代目の頃(宝暦年間1760)
現在地に分家独立したのを初代とする。
初代田中屋清八の没年は文化4年7月29日(1807)とあり、創業は宝暦年間と思われる。
因みに、鈴木家の祖始は紀州(和歌山)の人といわれ、16世紀から17世紀頃からこの地に移住したものと考えられる。(一族の家紋は「下がり藤」)
創業当時は「よろずや」を営んでいたといわれ、その後江戸幕府より度量衡販売の免許を受け、ものさし・はかり・ますの販売を開始したことからはかり田中の通称で親しまれ今日に至っている。
江戸幕府は、日本全国を名古屋を境に東西に二分し、東33カ国を守隋彦太郎に、はかり製造の全権を委任、金・銀座同様はかり座・ます座を設けて計量の統一・管理を計っていた。即ち、全ての商取引の単位である度・量・衡の重要な性格上、売り捌き人においても厳しい制限選考のうえ、責任ある商家のみに販売許可を与えたものであり、その数は極めて限られたものであった。当時商取引で故意に量目をごまかし不正を働いたものは、市中引き回しの上、打ち首獄門に処せられた者もあった。
明治42年の当店全景 |
明治新政府後も引き続き神奈川県より販売の許可を許され、本家「油田中」が明治29年県内で唯一溝口でますの製造の許可を受け製造を開始、その売り捌き人として奔走した。
当時馬の背にますを積み輸送している光景を古老は記憶している。尚、ますの原材料は木曾より求めたという。現存する当時のますには「溝口鈴木製」と刻印され、時折その懐かしい往時の製品を目にすることがある。
その後本家油田中は、不幸にして大正年間11代を最後に断絶している。
当家はその後、現在地に製茶工場を建設、自園採取の生葉(武州茶)による茶の製造販売も開始、東京に主として出荷していたが関東大震災による工場の倒壊と機械製茶の普及による影響の為製造を中止、以後販売部門のみを継承している。
以上述べた通り、信用と伝統の歴史を受け継ぎ、様々な苦難を乗り越え社会の一隅を照らしながら10代を継承、今日に至ることは子孫の最大の誇りであり、現業継承県内唯一の老舗として今後も地道な努力と研鑽を重ね、微力ながら社会に貢献していきたいと願っている。
10代目 鈴木 清 株式会社 田中屋 代表取締役社長
11代目 鈴木 清仁
江戸時代お茶は茶株仲間と呼ばれる専売問屋による許可制で「・・軒」という屋号をつけた店で小売販売されていました。
田中屋は【玉龍軒 田中屋】という屋号を名乗り、その後明治時代まで使用しておりました。
お茶は中国から伝来したことにちなみ縁起のよい【龍】の文字を入れた屋号が多くみられます。中国では龍は皇帝を象徴する柄といわれ形状が似ていることから、お茶は龍の爪と呼ばれ高貴な物として珍重されておりました。